思ったことメモ①

今日ちょっとした思い出の場所を散歩して考えたこと

 

思い出を保存する方法には「記憶」と「記録」があると思うんだけど、記憶、しかも自分ひとりの記憶しか残されていないのってすごい怖いことだなぁって

だって、その場所で色んな風景を見たり色んなことを考えたりした事実を保証するものって自分の脳みそしかないんだもん

もちろん人の記憶なんて本当にあやふやだから、昨日の記憶であっても絶対に確かなものだとは言えないし、ましてや数年前の思い出なんて自分に都合の良いように改変されてることって多々あると思う

そんな時に「違うよ、本当の事実はこうなんだよ」って教えてくれる情報がこの世のどこにも存在しない。これって凄い怖いし、孤独を感じちゃうんだよね

 

でも記憶以外に「記録」が残ってると少し話は変わってくると思う。自分の行動を客観的に書き記したもの、写真や動画

思い出の場所の例だと、「あなたが◎◎を最後に訪問したのは××年○月○日△時△分△秒でこのルートを通ってどこどこへ行き……」みたいな記録が残されていれば、少なくとも俺はめちゃくちゃ安心できる

さすがに訪問の事実が自分の脳みそがゼロから作り出した虚構ではないことぐらい分かってるんだけど、でもそれを保証する事実があるのとないのとでは感覚的に全然違うんだよね

 

でも難しいのは、そうした客観的な記録が残っていればいるほど、記憶の価値というのが下がっていっちゃうとこだと思う

当たり前だけど、記録は境界線がはっきりしてる厳正なる事実なのに対して、記憶ってそれよりずっとファジーなものだからさぁ

となると記録が残されている安心感で、思い出の記憶がどんどん隅に追いやられていってしまう気がするんだよね。これもまたすごい寂しいことだと思う。斉藤由貴の『卒業』ではまさにこのあたりのことを歌っていて、

人気ない午後の教室で

机にイニシャル彫るあなた

やめて想い出を刻むのは

心だけにしてとつぶやいた

の一節を初めて聴いたときすごく感動した

 

誤解しないでほしいのは、別に記録を軽視してる訳では全くないし、むしろ記録っていうのは積極的に残すべきものだと思ってる。例えば生まれ育った街の写真とか。ひとつの街が十年先二十年先にも同じ姿のまま佇んでることなんてあり得ないし、ある姿が失われる前に記録するのは重要なことだと思う

 

ただ残された記録がいっぱいあると、「いつでもあの頃の気持ちに浸ることができるね」っていう気の緩みが生まれてしまうなってことが言いたい訳で

 

散歩しながらぼや〜っと考えてたことを思い出しながら書き出したけど、すごく支離滅裂な文章になってしまったw

 

おわり