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思ったことメモ③

少年時代の硬派さを保ったまま成長するのってすごく難しいと思う

 

俺は藤子不二雄先生の作品が好きで、小学三年生の時にどっぷりとハマって以来それなりにファンの道を歩み続けてきたつもり。特に小学生から中学二年ぐらいまでが一番藤子熱の高かった頃で、当時はアニメやゲームなんかには全く手を出さず、一心不乱に藤子作品を読んでた。というかそれ以外の趣味なんて必要ないと本気で思ってたしw とにかく読んで楽しんで満足して、そのうち「これは許せるけど、これだけは絶対に許せない」みたいな信念も生まれて

別にこの程度の人世の中そこら中にいるし、だからすごいだろって言いたい訳じゃないんだけど、でも当時は自分の考えを強く信じていたなぁって

 

そんなことを思い出しながら最近の自分のオタク活動を自省すると本当に悲しくなる。本音では大して面白くないアニメを惰性で見たり、Twitterでそのアニメの話題で馴れ合ったり、掲示板でいつか使えそうな知識を得て満足したり等々で、

気付いたら他人の眼を意識したくだらないステータス向上やマウンティングばっかに気を取られた、惨めで軟派なオタクとも言えないゴミに成り下がってたんだよね

 

で、なんでこんな風になっちゃったのかと考えたけど、理由の一つはやっぱり他人との付き合いかなぁって。共通の話題で交友関係広げていくのって、よっぽど人間的魅力に溢れた人以外、多少自分を曲げていかないと難しいし。もちろん自分と反対の意見に賛同するとかそういう直接的なことではないけどもね。怖いのは無意識にそういう行為をやっていること

あとTwitterってリツイートやふぁぼでツイートの価値を定量的に測ることができるから、できるだけ賛同の得られる意見を言いたいとか、有用な情報を入手してチヤホヤされたいとかそういう醜い承認欲求も生まれちゃったんだよね

それでいつの間にか「これだけは許せない」みたいに心に刻んだ信条さえも許してしまうような軟派な人間になってしまったんだと思う

 

もちろんこれって俺の性格に依るものが大きいし、一般的には言えないことだと思うんだけど。だから長年インターネットやりながらも他人の意見に流されずに常に硬派であり続ける人って本当に偉大に見えるし見習いたい

思ったことメモ②

読書が趣味のA君は、同じく読書好きの友人B君と本の話をしていたらしい

それでAは

「いま、谷崎潤一郎にハマってるんだよね」

って言ったんだって

その言葉を聞くとBは少し顔色を変えて次のような発言をした

 

谷崎潤一郎みたいな高校生が好きそうな本を読むのは高校生で卒業しろよ」

 

 

 

 

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

 

 

なかなか面白い話ですよね

 

Bの発言についてだけど、

谷崎潤一郎なんて現在でも国文学科でバリバリ研究されてる作家の一人だし、卒論や修論のテーマに選ぶ人だっている。だから「高校生で卒業しろ」っていうのはどう考えてもおかしい

じゃあ何故彼はこんなトンチンカンな発言をしてしまったのかって考えたんだけど、ひょっとしてBは谷崎みたいな文豪には二つのタイプの読者がいると思ったんじゃないかな

一つ目は研究者タイプ。日本近代文学に深く精通していて、谷崎作品の理解に足る十分な教養と読解力を持っている人たち

二つ目は所謂スノッブタイプ。つまり「タニザキ」という響きに惹かれて全く面白いと思えないのに人に自慢するために読んでいるタイプ

ってな感じでね

もっともこんなタイプ分けは存在しないんだけど、もしこう決め込んでいるんだったら先の矛盾は生じない訳だ

つまりBはAが後者だと判断して「高校生レベル」の本の読み方しかできていないと思ったんじゃないのかな

そして「俺はネームバリューに流されずに本当に面白い作品を選べるんやぞ!」ってな読書家のプライドに突き動かされてつい言いたくなったんじゃないのかな

 

 

スノッブやアンチスノッブの問題よりも、「愛好者のタイプ分け」という偏見が露骨に現れてて面白い

アニメでもよくあるよね。女児向けアニメを楽しむ女児と中年オタクとか

本当は同じなのにね

 

べっぴんさん 前半感想①

昨日の第75話を持って『べっぴんさん』の年内の放送が終わった

全151話予定なので丁度折り返し地点だ。きりもいいので前半分の話を思い出しながら感想を書いていこうと思う

以下ネタバレ

 

 

 

まずスタートのキアリスの創立二十周年記念パーティーの場面

ヒロインが一人前になった姿を最初に見せておくのは最近の朝ドラの定石になりつつあるので、この試み自体にとやかく言うつもりはないんだけど、

紀夫くんを見せるなよ

と。旦那の生死が分からない、物証的には戦死した確率の方が高いかもしれない、でも生きていることを信じて娘と帰りを待ち続けるすみれ

ってのが第七週までのストーリーの根幹のひとつな訳だからさぁ、、、

パーティーの場面であっさりと紀夫くんを映すことにスタッフの誰も違和感を感じなかったのかなって思っちゃったんだよね

 

 

で、幼少期。放送日程で言うと初週前半

この辺は結構良かったと思う。すみれとゆり、潔くんと紀夫くんのパーソナリティもしっかり描かれてたし、成人後の言動と比較してもさして矛盾を感じない

あとヒロイン母の「べっぴん」の説明とか、麻田さんの物作りへの思いとか。すみれが刺繍に傾倒する要因としてきちんと筋が通っていると思う

まぁ明美のあの捻くれ方は今思うと違和感ありまくりだけど

 

 

次に女学校時代から終戦まで。放送日程で言うと初週後半から二週目

ここが決定的に悪かった。もう散々言われていることだけど、この駆け足展開のお粗末さが後々も尾を引いてるんだよなぁ、、、

まず一番の問題点が、「すみれは本当に紀夫のこと好きなの?」ってこと。紀夫くんがすみれにゾッコンだったのは見てりゃ分かるんだけど、彼女の方はずっと潔くん一筋だったからさぁ、、、

すみれが縁談を引き受けたのって、「父が築いた坂東営業部を途絶えさせたくないから!」みたいな感じだったけど、これに至る祖母の話もすごいわざとらしかったし、そのたった一つの理由で相手も確認せずに返事するのも変じゃね、、、

駆け足展開のせいで、結局その疑問点をフォローするエピソードもなかったしね

 

あと女学校シーンの少なさ。すみれは女学校で手芸倶楽部を立ち上げたけど、ここで良子と君枝との絆を深める描写をもっと入れるべきだったと思うんだよなぁ

この時期のすみれって、なぜか良子や君枝と刺繍に励むシーンより、潔くんとの恋の行方に注目するように描かれてるんだよね。キアリス立ち上げ後は良子や君枝の方が遥かにすみれに影響を与える存在になるんだから、その土台作りとしてせめて二週ぐらい使って女学校時代を描くことに専念した方が良かったのでは?

何となく出会って何となく刺繍して終わった感じだし

何にしても目先のことに気を取られて書いたような脚本だった

 

妊娠出産近江は省略

 

 

進んで神戸暮らしからベビー用品作り開始あたりまで。放送日程で言うと第三週から第四週

この辺り、大まかなストーリーは良かったんじゃないかなぁ。口座から預金を下ろせなくなって生活困窮→じゃあ自分で物を作って売ろう!の流れとか。で、外国人夫妻からベビー用品や子供用ドレスの依頼が来る。それらも紆余曲折を経て作製、感激される。ゼロからの出発でベビー用品店という道を見つけるある意味一番重要な話かも

まぁエイミーの突然の発狂とか、貧しいはずの明美さんがなぜか英語堪能なところとか、明美さんが唐突に仲間入りを果たすところとか、ツッコミどころもありまくりだったけどね

 

 

さらに進んでベビーショップあさや開店から紀夫帰還まで。放送日程で言うと第五週から第七週

ここはなぁ、わざとらしい展開のオンパレードで飽き飽きしてしまったのが正直な感想。特に良子と君枝がまるで悪役のように悪く描かれていて、役者がかわいそうだった。良子は声や態度が大きいパンパンにイビられただけで店を辞めるワガママっぷりだし、君枝は君枝で辞めたり復帰したりを繰り返すし。しかも一日や二日で二転三転されるんだからすみれや明美はたまったもんじゃないだろう。結局最後はみんなで協力して君枝の負担を軽くしようってことで話はまとまったけど、そんな君枝の病弱設定も最近ではなかったことになってるんだからなぁ、、、

あと君枝の家について、当時の占領軍が君枝宅を接収することは分かるんだけど、元の家主を家に招き入れてこのテーブルに合うテーブルクロス作製してくれなんて厚顔無恥なことできるもんなのかねぇ、、、

で、栄輔くんだけど、個人的にすごい好きなキャラだったw

既婚者のすみれに惚れてしまうけど、決して品位の欠けた行動はしないし、すみれの娘・さくらにも下心なく接していたし 。紀夫くんの安否が分からず精神的に不安定になってたすみれにとって大きな支えになっていたのは間違いないだろう。この辺り、『純情きらり』の桜子と冬吾の関係に似てるかもしれないけど、桜子はすみれよりも女だったからさぁ、、、

 

 

思った以上に長くなりそうなので後日Part2投稿

 

思ったことメモ①

今日ちょっとした思い出の場所を散歩して考えたこと

 

思い出を保存する方法には「記憶」と「記録」があると思うんだけど、記憶、しかも自分ひとりの記憶しか残されていないのってすごい怖いことだなぁって

だって、その場所で色んな風景を見たり色んなことを考えたりした事実を保証するものって自分の脳みそしかないんだもん

もちろん人の記憶なんて本当にあやふやだから、昨日の記憶であっても絶対に確かなものだとは言えないし、ましてや数年前の思い出なんて自分に都合の良いように改変されてることって多々あると思う

そんな時に「違うよ、本当の事実はこうなんだよ」って教えてくれる情報がこの世のどこにも存在しない。これって凄い怖いし、孤独を感じちゃうんだよね

 

でも記憶以外に「記録」が残ってると少し話は変わってくると思う。自分の行動を客観的に書き記したもの、写真や動画

思い出の場所の例だと、「あなたが◎◎を最後に訪問したのは××年○月○日△時△分△秒でこのルートを通ってどこどこへ行き……」みたいな記録が残されていれば、少なくとも俺はめちゃくちゃ安心できる

さすがに訪問の事実が自分の脳みそがゼロから作り出した虚構ではないことぐらい分かってるんだけど、でもそれを保証する事実があるのとないのとでは感覚的に全然違うんだよね

 

でも難しいのは、そうした客観的な記録が残っていればいるほど、記憶の価値というのが下がっていっちゃうとこだと思う

当たり前だけど、記録は境界線がはっきりしてる厳正なる事実なのに対して、記憶ってそれよりずっとファジーなものだからさぁ

となると記録が残されている安心感で、思い出の記憶がどんどん隅に追いやられていってしまう気がするんだよね。これもまたすごい寂しいことだと思う。斉藤由貴の『卒業』ではまさにこのあたりのことを歌っていて、

人気ない午後の教室で

机にイニシャル彫るあなた

やめて想い出を刻むのは

心だけにしてとつぶやいた

の一節を初めて聴いたときすごく感動した

 

誤解しないでほしいのは、別に記録を軽視してる訳では全くないし、むしろ記録っていうのは積極的に残すべきものだと思ってる。例えば生まれ育った街の写真とか。ひとつの街が十年先二十年先にも同じ姿のまま佇んでることなんてあり得ないし、ある姿が失われる前に記録するのは重要なことだと思う

 

ただ残された記録がいっぱいあると、「いつでもあの頃の気持ちに浸ることができるね」っていう気の緩みが生まれてしまうなってことが言いたい訳で

 

散歩しながらぼや〜っと考えてたことを思い出しながら書き出したけど、すごく支離滅裂な文章になってしまったw

 

おわり